光圀公は少年の頃より卓越した性根と、頼房譲りの利発さで周囲を驚かしました。
正保二年十八歳の時、「史記」の白夷伝を読み感動、人生の指針に大きな影響を与えられました。
長幼の序や、家督相続について。光圀公本人が兄を越えて家を継いだ事を深く恥じた。又真の忠義倫理について、その考え方を根本的に反省されました。
そして何よりも歴史書の「史記」に触れた事は大きく、著者の司馬遷の偉業に感銘し、日本國の歴史も正しく後世に伝える使命を強く感じました。
十八歳の時から資料を集め始め、三〇歳(明暦三年/一六五七年)には藩邸内に修史局を開設。四五歳の時には彰考館と名付けました。
此処に優れた学者を集めて、日本の歴史の研究を任せ、「大日本史」の編纂を始められました。
時は江戸時代の前期で、幕府にも大いなる権威が有り、國政は全て幕府の基本政策に則って執り行なわれる時代でした。
光圀公の歴史探究姿勢は根本的な部分で、忠義とは如何なる対象ヘ、どの様な志で望むべきものなのか。
究極を極めると、幕府の存在さえ危うく成り兼ねないものでした。
光圀公は御三家の一人として、その辺りも覚悟の上で編纂に臨んでおりました。
そして「大日本史」は、未完の内に光圀公は逝去しました。
光圀公は死後の事も考えて、その編纂の大筋を決定して内容が偏らない様に指示して置きました。
「大日本史」は明暦三年の修史局開館より、明治三九年迄二五○年もの間、光圀公の志を継承して編纂されました。
全四〇二巻の「大日本史」は、世界中に誇れる類のない、日木の歴史書となったのです。
光圀公は「大日本史」上の編纂の中で摂津湊川に、楠木正成公の忠魂の墓碑を建立しましたがこれは國の成り立ちを無視した足利幕府の批判、及び徳川幕府の反省に連なる恩想です。
そのため永く歴史の中で埋もれていた、楠木正成公が真の忠誠の士として脚光を浴びる様に成りました。
その光圀公の気風を内包するのが水戸学です。
水戸学は光國公の烈烈たる精神を受け継ぎ、あの明治の大政奉還を迎える為の、明治維新の呼び水となり、勤王の志士達の志の拠り所となりました。 (「物語日本史」平泉 澄先生ご高著より引用。)